首領(ドン)は何を見たか 2009年04月04日 21:17

 ほんの20年前の日本の各地には、地域に君臨するボスが多くいた。本書の中では取り上げられていないが、山形新聞の社主でTVや交通などの県内有力企業を参加に治め、服部天皇とも称された服部敬雄などはその典型といえる(注:最近再結成したユニコーンの曲に「服部」という曲があるが、これは山形では絶対的な存在だった彼のことを皮肉った曲とのこと。ネタ元はwikiなので間違っていたらすみません)


 力の源泉は、金や暴力、情報などで使うことで権益を独占することにあったと思う。首領とまでよべる器かどうかは読者によって疑問を持つ向きもあるかもしれないが、本書ではそうした首領たちが紹介されている。


 読了して私は彼らは必ずしも悪とはいいきれない存在だなと感じた。特に社会が不安定な混乱期、例えば戦後間もない頃は、少ない資源の配分を誰かが調整する必要に迫られる局面もあったのではないか。本来は行政機構がそうした機能を担うというのが教科書的な答えだろうが、現実の社会はそううまく動かない時もある。彼らはそうしたパイの分配役をドンとなることで果たしたのではないだろうか。


 日本社会には往々にしてありがちな、これは〜さんに通してある話だからという形で利害をともなう事象が処理されることで、一人ひとりは少しの不満は感じながらも、次回は利益を受ける側にまわることが期待されるのでその場は不満をもっても我慢する。そうして、社会全体の調和が保たれる。そんな社会的文脈がドンの存在によって形成されてきたのではないか、ところが時代が進むにつれ、合理性があると思われていた分配構造が既得権益化し、時には肥大化した陳腐な権威(首領)を生む、80年代には特にそんな光景をよく目にした気がする。


 本書の最後の章は、最近週刊誌等で話題になっている2世議員を取り上げている。実は、70年代〜90年代(60年代以前にも、戦前から議席を持つ国会議員の世襲も多くおこなわれた)にかけては、世代交代にともなって多くの戦後議席を得た世代の国会議員が地盤の継承、いわゆる世襲をおこなった。2世議員の誕生である。しかし、これは「首領」の誕生とはいえない。「首領」は、第一世代の中にいた。田中角栄(本意であったかはわからないが彼も地盤を世襲した)はいうまでもなく、その他の例も枚挙にいとまがない。


 この現象をどうとらえたらいいのだろうか、政治家の後援会という分配機構がその存続のために「首領」を必要とし、必然として2世議員が生まれたと考えるべきなのだろうか。2世議員の少なくない人々が、はじめは議員になりたいとはまったく考えていなかったのにも関わらず、なぜか最終的には国会議員となる。そうした文脈の証言は本書の中にも出てくるし、似た発言をしている2世議員は多い。もちろんこのことだけをもって私の考えの裏づけがとれたとはいはないが、この現象、継続して考えてみたいテーマだ。

首領(ドン)は何を見たか

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