政治家を支援するということ。関りを続けること

継続して政治家と関わって来て感じていることについて書きたい。数か月前から何度も内容を書き直してきて、結局論理的な文章に落とし込むことはできなかった。50歳近くになったおじさんが悩むようなことではなく、こうしたことを書き残すこと自体が恥ずかしいと思うが、書かずにいれなかった。

 

友人から、政治家を支援すると何か得なことがあるのかと問われることがある。特に余禄のようなものはなく、持ち出しばかりと答えるが、なかなか信じてもらえない。現実的な利益が得られるわけではなく、ただ、共に活動に関わる仲間たちができ、彼らとの絆が深まるだけだと思う。政治家を核として損得無しで結びつく。それ以上に得るものはなく、私はそれがよいと思っている。

 

先日、ある友人の政治家と話していて胸を打たれる話を聞いた。手のかかる支援者との付き合いについて、自分が政治家になる時に大きな役割を果たしてくれて、それからも共に戦ってきた仲間だから、どんなに迷惑をかけられても付き合いを断つことはできない。そんな対応をとってしまったら自分が政治家として立っていけない。

 

こうした場面で理よりも情を取る彼のような政治家の振る舞いが自分にとっては好ましい。これまでにも似た話を私は少なからず聞いてきたが、その度に心を打たれている。

 

支援者の側から見て、疑問符が付く行動を政治家が取ることがあると思う。そこで関係が終わることもあるし、終わらないこともある。諦めながら諦めない。政治家との関係を継続するには、そうした心構えが重要なのだと思う。

 

劇作家の山崎正和が、政治家との関係について長く関係を続けるには分をわきまえること、期待をしないこと、自分の政治的な考え方を実現するために政治に参加しないこと、いろんな意見は必要に応じて述べるが、それが取り入れられることは望まない。一部でよいので後でなんらかの形で活かされればよいと回顧録で述べていたことが強く印象に残っている。山崎氏が語ったこうした姿勢、考え方は、私自身が政治家に関わる中で行き着いた結論めいたものとほぼ同じである。

 

実のところ政治家と強く関係を結べば結ぶほど、コスパやタイパとは真逆の出来事がおこる。4半世紀政治家と関わっていると、支援した政治家がスキャンダルを起こして恥ずかしい思いをしたことは何度もある。実質的な迷惑をかけられたり、政治的なスケープゴートにされて責任を押し付けられそうになったりもした。ひどい時は、君と付き合って何か私に得があるのかよくわからないと面と向かって言われたことにもある。

 

話はズレるが、私は政治家だけでなく、学識者や社会運動家からこうした言葉をかけられることがある。よほど考えが浅い人間に見えるのか、言っても許してもらえそうな人に見えるからなのかはわからないが。まあ、私に軸となる考え方がないことは認める。こうしたことにはもう慣れっこになってしまい、腹立たしく思う気持ちがないわけではないが、特に気にしなくはなった。

 

最近、政治家と支援者の関係性は変わってきたように思う。関係性にコスパやタイパと呼ばれるようなものが求められているように感じる。自分の思い通りにならないとすぐに離れていったり、敵対する。

 

SNSで政治家と気軽につながれるようになったことが大きな影響を与えている。気軽につながり、簡単に関係を清算する。濃密な個人的な人間関係や中間集団を介した利益配分が軸になってきた政治の世界には変化が訪れつつあるのだろうか。

 

実際に顔を合わせて関係をつくっていた時代から、ネットでつながることができるようになったことも影響しているのかもしれない。政治家の側もそうした変化を意識してネットでつながることを意識した活動にシフトし始めている。

 

社会の各領域でコミュニティを形成してきた中間集団がどんどん弱くなり、政治家は中間集団を介して有権者と顔を合わせて深い関係を結ぶことが難しくなっている。

 

個別に接触しようとしても在宅率が低くなり、地方であっても戸別訪問をしても有権者に会うことができない。そもそも個人情報を提供することを嫌がる有権者が多くなった。個人に呼びかけることが難しくなったからか集会が成立しないという話もよく聞く。

 

そもそもそうした活動で接触できる層は、元々、かなり偏っていた。社会の構造の変化がすすむ中で、ネットでつながろうと市民も政治家も工夫することは無理もないことで、それが悪いことばかりとは思わない。

 

20代の若い政治家が、従来型の有権者との接点の作り方とインターネットを介したコミュニケーションのバランスよくとりながら活動がしている例について話を聞く機会があった。彼らは、これまでの政治家の活動手法もよく学んでいて、インターネットの活動だけを重視していない。私が10年以上かけて現場で学んだことを短期間で吸収し実践しているのは、多種多様な情報源を活用してリソースを得ながら行動することが自然にできるデジタルネィティブ世代の強さを感じる。

 

政治の現場には、どんなに裏切られても、政治家に期待することをあきらめない人たちがいる。そうした皆さんは、私にとっては眩しすぎる。至誠通天という言葉が頭に浮かぶ。私にはとてもたどり着けない領域だが、美しいと思う。

 

翻って見ると今の自分にあるのは政治家への執着のようなものなのかもしれない。もうかなわないと解っていながら、政治家とともに理想を追うような生き方をしてみたいという気持ちが心のどこかに残っている。

参院選に出馬しない

公認会計士山田真哉さんのYouTubeをなんとなく聞いていたら、参院選に出馬しないという報告をしていて面白かったです。某党から比例区からの出馬の打診があったとのこと。

YouTubeの視聴層の票を意識して自分だけでなく他のYoutuberにも参院選出馬の声がかかっているのではないかという分析は、なるほどありそうだなと思いました。選挙を取り巻く環境の変化を感じるお話でした。

少し話はズレますが、参院の全国比例だけは誘われても出馬しない方がよいと思います。私は参院選の実務には関わったことがありませんが、噂に聞くだけでも、勝つのが相当しんどい選挙です。

毎日テレビに出演していて、誰もが知っているクラスの芸能人やスポーツ選手のような著名人なら別ですが、特定の分野での有名人といった方の場合、過去の例を見ても知名度だけで勝ち抜くのは難しいと思います。

圧倒的な知名度がない候補の場合は、少し大げさかもしれませんが、約1,700ある地方自治体すべてで市町村議選を戦うような選挙の設計が必要になると思います。

参院選の全国比例区の選挙にもいつか機会があれば、関わって見たいですが、こうやって頭の整理をしていると、考えるだけでも大変そうです。

 

youtu.be

 

流動性の幻想と格差の現実

殴り書きのように文書を書き始めた。まとまらない思考の断片を書き留めておきたくて書いている。

治安が安定した国に育ち、質を問わなければ衣食住には不自由せず、一見平等な社会の中で生きているように感じるかもしれない。平成の前半ぐらいまでは、大方の日本人は個人的な不満はあっても、社会に対して根本的な不満を持つことはなかったのではないだろうか。

令和の今は、社会に存在する格差がメディアを通じて可視化されてきているので、そんなのんきな人は少ないかもしれないが、それでも閉じられた世界の中で生きていると、もっと根本的に埋められない断層のような格差が世界にはあることに気づかないかもしれない。

そうでない人たちが存在したことも、私は知っているが、多くの人々は、そうした存在に気づいていないか、無視していた。そのこと自身は課題だが、ここで書きたいことからはずれる。

今、私は、生まれながらに豊かなリソースを与えてくれるコミュニティに所属できている階層の人々が存在することを実感を持って認知させられている。そして、後からその仲間になることは、単純な努力では実現できない、難しいことだということもわかってきている。当たり前のことだが人は平等ではない。

ある時期の日本の社会には流動性があるように見えたことがあったかもしれないが、それは幻想で、最初から上層と下層の間には大きな溝があったのだと思う。開国や戦争のような大きな変動がない限り、それを乗り越えることは容易ではない。むしろテクノロジーが発達し、貧富の格差が信じられないほど拡大した現代の社会においてこそ、その差は固定化しているのだと気づかされる。

書いているうちに陳腐な言葉の羅列になってしまった。もう少し違うことを考えていたはずなのに。

 

 

 

慌ただしすぎて集中力が続かない

師走がもうやってきたような心持でいる。やることが山積みなのだが、集中力が続かない。それでもなんとなく作業はできるのだが、優先順位が滅茶苦茶になってしまっている気がする。落ち着いてひとつずつ片づけなければ。こんな感じであっという間に年が変わりそうだな。

私が政治家の前から去る時

政治家は他人の信用を借りて、それをきっかけに築いた信頼の積み重ねの上に議席を得て初めて仕事ができるようになる。政治家には、信用の重みに対して想像力を持って行動して欲しい。

政治家自身の知らないところで様々な人が自分の信用を担保にして働きかけ支持を広げてくれている。長く政治家を務めた人なら、まったく自分が知らない人が様々な関係性から応援してくれていたことを知って驚いた経験があると思う。

私は自分が応援してきた政治家が、自分の信条や考えと異なる行動を取ったとしても、そのことのみで関係を断つようなことはしない。まず、政治的に必要なことだったのかもしれないと考える。

ただ、自分の友人や知人に支援を呼びかけたことを恥ずかしく感じたり、申し訳なく思うような振る舞いだけはしないで欲しいと思う。

こうした振る舞いを見た時は、私は静かに彼らの目の前から去ることにしている。

選挙運動にとって重要な要素について考えた

様々な選挙に関わってきて、最近、選挙運動にとって重要な要素は2つのに大別できるのではないかと考えている。政策的な争点をつくり出せるかと活動・運動量の2点。

前者については、地方議員の選挙ではあまり重要ではないかもしれない。ただ、政策的な争点ををつくり出せるだけの課題の把握力、情報の発信力がある候補者は選挙には強い。

後者は、単純な話でともかく活動・運動の量を増やす。わかりやすい例で言うと選挙区内の家を全戸訪問するといったこと。体が元気で時間が自由になり、金銭的な心配がないなら誰にでもできることのため、ほとんどこの要素だけで票を獲得している候補者も多いと思う。

国政レベルの選挙や首長選になってくると政策的な争点をつくり出す役割は政党に比重が移るが、候補者が独自に発信する部分はもちろんあってよいし、やはり、それができる候補者は選挙巧者が多い印象がある。

妥当な考え方と言えるのかどうかわからないが、少なくとも私の経験では、この2つの要素は選挙結果を左右していると思う。

評価について考えた

 

三矢勝司さん(名古屋学院大学現代社会学部准教授、NPO岡崎まち育てセンター・りた)のnoteを拝読し、評価についてあらためて考えています。

量だけでなく質を評価するべきといったことを私はよく口にしている気がします。しかし、質とは何のことを指しているのか、誰にでもわかるように説明ができるかというと自信がありません。

三矢さんの投稿は、この点についてとてもわかりやすくコンパクトに整理されています。質の評価だけを述べた論考ではありませんが、その部分が強く印象に残りました。これから何度も読み返す文章になると思います。