選挙の思い出・限界を知った10年

夕食を作りながら少しお酒を飲みながらこの10年をふりかえり、おっさんの一人語りを公開するのは醜いと知りつつ投稿してしまいました。お許しください。
これまでの日々は、選挙について自分の限界を理解する年月だったと思います。小手先の技術をどれだけ磨いても自分が選挙結果に及ぼせる影響は微々たるもの。いや、ほんとどないことを悟りました。
担った役割は様々ですが、私がこの10年で関わった選挙は、20~30ぐらいだと思います。多いと見るか少ないと見るかは様々だと思いますが、候補者、政党、組織、秘書といった肩書のない人間としては、それなりに経験を積んだ方だと考えていました。何度も書いていますが敗北で失ったものを取り戻すために様々な伝手をたどりながら少しでも経験を重ねようと選挙の現場に参加し足掻いて来ました。しかし、この数年、自分の力の限界を感じる場面が多くなってきました。結局のところ、選挙結果に影響をあたえるのは、候補者本人の努力であって私のような立場の人間ができることには限界があるということを理解しました。
この投稿をご覧になる皆さんの中には違和感を覚える方があると思いますが、選挙において政策が有権者の投票行動に与える影響は私はほとんどないと思います。特に私が主戦場にしてきた地方選挙においては、その傾向が如実に表れます。地方選挙に関わられた経験をお持ちの皆さんは、同意いただけるのではないかと思いますが、任期中、政策について一切の発信をしなかった候補者が選挙においては上位で当選する。そんな結果を何度も経験されているのではないかと思います。
ご批判を承知で言えば、政策に割く時間があるなら「選挙」に時間をできるだけ充てる。それができる候補者が選挙においては結果を出すと経験から確信しています。むしろ、誠実に自分の思いや政策を練り上げ、ひとり一人の有権者にそのことを理解して欲しいと行動する候補者が選挙結果においては、十分な成果を出すことができない。時には落選してしまう。そんな現実を見てきました。
私は、自分が選挙戦を預かる選挙においては、この現実をスタート地点にして選挙に関わる支援者の皆さんにご説明しますが、この話をすると非常に不快に感じられる方が一定あり、それが、候補者自身のこともあって自分が間違っているのだろうか、人間として歪んでいるのだろうかと感じることがあります。それでも勝つためには必要なことと割り切って進めるのですが、本当にこれが正しいことなのだろうかと思います。負けるよりはいいとは思うのですが。
「選挙」に時間をできるだけ充てるとは、具体的にはどういったことを指すのかについてもう少し述べさせてください。極めて単純化すると候補者が有権者とどれだけ個人的な関係を結べるか、そのためにどれだけ時間を割けるか。選挙の要諦はこの一点につきると思います。田中角栄元総理は、戸別訪問三万軒、辻説法5万回をこなせと言ったとされますが、私の理解では、有権者と候補者が個人としてつながりを持つためには、この手法が最も効果的だと田中さんは考えていたということなのだと思います。
ふと思い出すのは、現職の閣僚である世襲議員の選挙を手伝った若いスタッフの言葉です。戸別訪問に回っていてある家を訪ねた際に家人が、候補者の祖父の名刺を出してきて、先生が我が家を訪ねて来てくれたことを覚えていると話してくれたとのこと。候補者本人のことを知らなくても個人的な関係性があることが、強いつながりを候補者と有権者の間につくる。後年、大物政治家になった人物が家を訪ねてくれたことを思い出として大事にしている人がいる。とはいえ、今日、そんな人はいないだろうという人はあるかもしれませんが、世襲議員が圧倒的に選挙に強い現実を見ると世代を超えて有権者との間につくりあげた関係性がいかに強いものかがわかると思います。
このことについては、フリーランスのライターさんが私が酔っ払って話したことをまとめてくださっています。この投稿の中で「いろんな政治家の人の選挙のお手伝いをしている」と記されているのは私のことです。
酔いが回ってきたので今日のところはここまでにします。

壁を感じる時

経験から帰納的に考えることは、意識するかどうかは別ですが、多くの皆さんは無意識におこなっていることだと思います。個々人の経験の格差はありますが、特別なトレーニングをうけなくともできることではないかと考えています。
私は仕事などに取り組む時に基本的には過去の経験からパターンを引き出して判断し、その時々で妥当と思われる行動を選択してとっています。過去に類似の経験をしていない場合は、適切な判断が取れる時もありますが、取れないこともあります。
一方で昨日の投稿で書きたかったこととも少し関連するのですが、論理的なフレームワークを用いて思考し行動することができる人がいます。社会像や新しい事業のモデルなどを描ける人は、様々な事象から見えてきた要素をつなぎ合わせて考え、構築することができると感じています。この思考方法が生まれながらにできる人はあまりいないので身に付けるには一定のトレーニングが必要となると思いますが、特別な能力ではないとも考えています。
時々、こうした思考方法を見事に使う人に出会うことがあり、その構想力に圧倒されることがありますが、そうした考え方をとる人が一定数いることを知っていれば、冷静に相対化して対応することは可能と思います。
私自身がこういった考え方をするのが苦手なことは、この投稿を読んだ方はわかるのではないかと思います。つまり何が言いたいのかよくわからないと思いますが、思考のプロセスを残しておきたくなり記しました。

悪い癖

やはりあの場では何か発言しておくのだったと今さらながら後悔しています。空気を読んで沈黙を守ってしまった。だいたいこの辺りが着地点なのだろうなと勝手に感じて議論を避けるのは、私の悪い癖なのかなとも思っています。
今、リベラリズムについて論じている文献を少しづつ読んでいるのですが、目の前の仕事に追われていると学生の頃に学んだような社会のあり方を大括りに整理してみせる議論に魅力を感じる時があります。
もともと私は、具体的な政策についての議論よりはもう少し形而上的、哲学的な議論が好きで特に忙しくなってくると現実から離れて、〇〇とは何か的な書物を読むことが多くなります。もしくは、伝記など過去の資料に目を通します。リアルタイムの狂騒から距離を置きたくなるからだと思います。
昔、ある研究者の方と飲んでいた時に自分が若い頃にマルクス主義が流行ったのは、社会の構造をナタで切るようにわかりやすくすっきり捉えるフレームを提供してくれたからだと言われたことがあります。
ただ、わかりやすいものには往々にして害があるもので、私自身、新しい理論に触れて世の中についてわかったようになった気分にならないよう戒めていかないといけないと考えたことを思い出しました。

負け犬たちのワンスアゲイン

RHYMESTERを聴きながら事業報告書を書いています。パソコンのキーボードをたたきながらリズムをとってしまうのではかどるようなはかどらないような感じですが、次の会議の合間までの時間ちょっとした息抜きも兼ねています。次は、once againを聴こうかな。

 

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おのがデモンに聞け

『おのがデモンに聞け』タイトルだけで買って読みたくなる吉田書店の書籍です。同じ出版社の近刊では、『三木武夫秘書備忘録』も読みたいところですが、最近、まったく本を読む時間がないのと積読がおそらく100冊を軽く超えているので我慢します。
吉田書店の政治・社会系の本はすべて購入したいのですが、値が張るのと読み切るのに気力が必要なのでなかなか手が出せません。
 

オーラルヒストリーを読む

だんだんオーラルヒストリーを読むことができるようになってきて不思議な気持ちになっている。新年は、とても本を読めるような状態になかったのに2か月で心境が変わっているのが自分でも面白い。

今読んでいる宮澤弘回顧録地方自治の黎明期を淡々と語っていて面白いのだが、昨日指摘を受けてびっくりしたのは中古の価格が1万円を軽く超えていたこと。何があったのだろうか。SNSの政治クラスタや著名な研究者が話題に出すと一気に値段が上がる事があるが、そういうことなのだろうか。ちょっと理由がわからないが気になっている。私が購入した時は、中古で千円もしなかったと思う。

同じ自治省の官僚では、奥野誠亮回顧録も1万を超えていてびっくりした。昔読んだことはあるのだが、買ってはいないので安いうちに買っておけばよかったとも思う。ただ、ちょっと読みにくかった記憶があってまあいいかと思った本だったので買わなかった。安いうちに買っておくのだった。

宮澤弘氏は、コンパクトに話すタイプの人だったようで政治家にありがちなどんどん話が広がっていってまとめるのが大変という人ではなかったようで、本当はもっといろんなことを聞き出したかったが上手くいかなかったことを研究者が前書きで正直に書いているのが面白かった。

もう一つ最近面白いなと思うのは、意外な本がkindle版になっていること。古いものでも突然kindle版になることがある。そのあたりの権利関係はよくわからないのだが、ともかく、本を置いておく場所がもうないのでデジタルに切り替えるのはひとつの手だとは思っているのだが、中古の方が安いのでついついそちらを買ってしまう。

よくわからない理由で高騰した中古本の価格も再版されたり、kindle版が出ると値が落ち着く傾向があるのでそれに期待したい。

地方自治に生きる-宮澤弘回顧録-

地方自治に生きる-宮澤弘回顧録-

 

 

『舞台をまわす、舞台がまわる 山崎正和オーラルヒストリー』を読んで

半年ほど前にお世話になっている方から、劇作家の山崎正和氏のオーラルヒストリーをお借りして少しずつ読み進めてきました。9月頃に半分ほど読み終えていたのですが、結局年が変わるまでかかってやっと最後のページにたどり着くことができました。
オーラルヒストリーの内容がつまらなかったから読めなかったのではなく、自分の本を読む力が衰えてきているからだと思います。10代のころは、一日何冊でも本を読むことができたのですが、40代になり、読む気力を保つことが難しくなってきたと感じています。
それはともかく、山崎氏のオーラルヒストリーは、期待以上の内容でした。正直なところ演劇に関わる部分はほとんど私にはわかりませんでしたが(それはそれで興味深かったのですが)、各内閣との距離感、佐藤栄作福田赳夫大平正芳といった政治家との関係性、政治家との付き合い方、研究者としての活動、そして、大学や公益法人改革以前の財団の立ち上げや運営について詳細に話されている事が強く印象に残りました。
演劇については詳しい方にとっては自明のことなのだと思いますが、台本に沿って演劇を演じることが古いものとされ、衰退していた時代があったというのが、現在から見ると不思議に思います。こうした時代感覚のズレを感じられるのもオーラルヒストリーを読む醍醐味のひとつだと考えます。
オーラルヒストリーは生い立ちから聞いていく形をとるものが少なくありません。このオーラルヒストリーも山崎氏の幼少期の記憶をたどっていくところから始まります。冒頭の満州時代の生活の記憶、風景の語り方が、芸術的に感じられて官僚や政治家のオーラルヒストリーとは少し違うとも感じました。
財団の事務局が肥大化することについて、警鐘を鳴らしておられて、しかし、どうしてもそうなってしまう傾向がある。また、公益法人改革前ということもあると思いますが、山崎氏のような方が関わっていても官庁の指導への対応に大変苦労されている。今日でも似たような話を聞くことはあり、以前からこうしたことは指摘されていた事なのだと気づかされました。
これはオーラルヒストリーから離れて、私がこの間、他の財団関係の資料やインタビュー等を読んだりする中で感じている事ですが、あまりよい言葉ではないですが、エスタブリッシュというかハイソサエティな文脈の中にいない人間にとっては理解が難しいこと、リソースの配分がおこなわれている社会の空気を共有できる層があるのだと思います。
オーラルヒストリーを読むことの面白さのひとつには、私の様なものが本来見ることができないものの一端を経験することができることがあると思います。また、場合によっては自分の経験を照らし合わせて、折々に垣間見たものの意味に気づくこともある。山崎氏のオーラルヒストリーでは、そうした気づきを得ることが多かったです。
昭和の時代は、政界、官界共に学者との接点を公的、私的共につくることに熱心だったのだなという印象も受けました。私の捉え方が間違っているかもしれませんが、学会と付き合うということではなく、これはと思う学者をピックアップして研究会などに呼んだり、折々に政策についてアドバイスを求めたりしながら関係を深めていく。今日でもこういうことはおこなわれていないわけではないと思いますが、山崎氏が活躍した時代と比べると密度や濃度が違うと感じました。単純に社交や酒席を共にする機会が減ったというだけではなく、成果があがるのかわからないことにかけられた時間とお金が今とは明らかに違うと思いました。社会に余白や遊びがあったとも言えて、その点は、よい時代だったのかもしれません。
政治との関係の取り方についての話は、個人的に大変うなずけるものでした。私は知識人ではありませんので現実の政治への関わり方は山崎氏とは違いますが、長く関係を続けるには分をわきまえること、期待をしないこと、自分の政治的な考え方を実現するために政治に参加しないこと、いろんな意見は必要に応じて述べるが、それが取り入れられることは望まない。一部でよいので後でなんらかの形で活かされればよい。山崎氏が語ったこうした姿勢、考え方は、私自身が政治に関わる中で行き着いた結論めいたものとほぼそっくりで不思議な気持ちになりました。こうした内容について語っているのは、オーラルヒストリーの中で2ページ程度の分量ですが、強く印象に残りました。
貴重な書物を貸していただきありがとうございました。できるだけ早くお返しにうかがいたいと思います。直接感想をお伝えできるのが楽しみです。