市民と政治の回路

先日、ある会合に出席していてあらためて理解したことなのですが、政治家は本当に嫌煙されている。できれば関わりたくない存在だと考えている人が多いことを再認識しました。
特別に隠していませんが、私は政治家に知己があり、選挙に関わってきた立場ですので半ば政治関係者だと自己認識しています。気負い過ぎた表現になりますが、立場は違えど同士として活動してきたと思っています。ですから、こうした言説に触れる度複雑な気持ちが心に過ります。
特に政策策当事者、行政やその関係機関で仕事をする人にとっては、率直に言って無理を言ってくる人たちという印象で括られていることがわかりました。にもかかわらず政治という営みは、市民にとっては切り離すことができないものである。そんなことを考えています。
格好をつけた言い方になるので文章に残すのが嫌なのですが、あえて書けば、こうした言葉に触れる度に市民のために損得抜きで汗をかいている友人の政治家たちの顔が頭に浮かびます。彼らが日々、努力していることは意味のないことなのでしょうか。私はそうではないと思っています。
このようなことを書くとお叱りを受けるとは思いますが、必ずしも政策を実行する当事者の運用が適切でない場合もあるのではないかと思います。そうした時に政治家の存在は市民にとっては頼りになるものではないです。
折に触れて書いていますが、私は、政治家や官僚の回顧録を読むことを生きがいのひとつとしていますが、昭和頃までは、政治家や行政と一般の市民の情報格差には極めて大きなものがあったと感じる記述が散見されます。それ故に情報の仲介者としての政治家の果たす役割は大きかったのではないかと思います。
今日、市民と政治、行政の情報の非対称性は、インターネットの発達などを通じて小さくなってきています。ただし、そうした情報を上手く使いこなすことができるのは、社会的な強者であり、いつの時代も弱い立場にある方は、情報にアクセスできないということは多くある。しかし、その仲介を政治家がすることを政策当事者にとってはノイズと感じられるのだと思います。私も公の仕事に少なからず携わってきましたので、そうした政策当事者の皆さんのお気持ちは理解できなくはありません。また、行政にアドボカシーすることで一定目標を達成できると戦略的な判断をされる市民の考えには私も現実的にそうだろうなと思う部分もあります。
しかし、本当に市民と政治との回路がなくてよいのかとも考えます。何らかの対話の仕組みを市民と政治の間に持っておくことは必要ではないでしょうか。仕事を進めなくてはいけないのですが、ついつい自分の考えをメモとして残したくなり投稿してしまいました。まとまりのない文章で恐縮です。