右と左と裏―暴れん坊記者が明かす京都秘史

 京都新聞の元名物記者が明かす京都の秘史。特に京都市政についていの筆者の食い込みぶりは大変なもので歴代の市長とも直で話せる仲だったようだ。詳しい回想は、52年に筆者が入社したころから80年代前半の筆者が前線の取材をする記者であったところでほぼ終わっており、役員になってから十数年のことは、流すように書いて終わっている。筆者のそれまでの活躍ぶりからするとあまり書くことがなかったとは思えないので、この期間については、まだ書くには早いことが多かったのかもしれない。


 いわゆるサツ回りの社会部記者を走りに、政経部と社会部を行ったり来たりしながら筆者の記者としてのキャリアは形成されていく。名張毒ブドウ酒事件の取材などで活躍したことが本書の中では紹介されている。そのほかにも多くの事件の取材を手がけたとのことだが、事件取材よりも、私の印象に残ったのは夕刊紙で京都の魅力を掘り下げて紹介する企画物を手がて好評を得たことと(出版物にもなったとのこと)、編集局に配属された際に投書欄の「窓」を担当し、活発で面白い紙面を企画したことだ。


 投書欄「窓」の話については、もう少し詳しく紹介したい。筆者は担当になると、まず、大胆な意見や極論を積極的に掲載するようにした。反論がくると掲載し、両者の主張を読んだ他の読者から中庸な意見がくるとこれも掲載した。今風にいうと投書欄をインターネットの掲示板のようにつかったといえるかもしれない。特に教育問題を取り上げた際には、一浪人生の投書がきっかけに議論が盛り上がり投書欄超えて特集やキャンペーン企画にまでつながった。ひっしょなの表現を引用すると「投書が投書を呼び、紙面は弾んだ」とまでといえるほど盛り上がったとのこと。また、筆者は投書欄を担当することで、市民の生の声にふれ、それまで自分が行政サイドの情報によった記事ばかり書いていたと反省するきっかけとも述べている。


 このように社会面や政治面の記事以外にも記者としての才能を発揮した筆者だが、やはり政治について回想するときが最も筆がのっている。京都は、よく知られているように戦後長く蜷川虎三知事による革新府政が続いた。蜷川氏の在任期間は1950年〜78年まで7期28年にもおよび、今日でも京都で共産党が強い地盤を誇る要因の一つとなっている。このことは私ももちろん知っていた、しかし、京都市政については、理解が不足していた。


 京都は府政は、革新であったが市政は途中から保守に転じた高山義三氏がこちらもまた長く市長を務め、府政は革新だが市政は保守という今風に言うとねじれの状態が長く続いた。この状態が解消されるのは蜷川氏が知事の座を退いた78年以降のことで、この間、時に府と市は緊張関係に陥ることもあったようだ。府政の奪還は自民党や京都の財界にとって長年の悲願であり、蜷川氏に対してさまざまな候補者をぶつけたが、どうしても勝利することができなかった。その過程での裏面の話もたっぷり本書では紹介されている。


 この他、筆者と野中広務氏の深い縁、京都新聞の白石家に2代に渡って使えたことや京都には唯一宗教記者クラブがあるほど寺社が大きな存在感をもっていることなど興味深い話が多数紹介されている。京都の現代史に興味のある方は、ぜひ手に取ることをお奨めしたい。

右と左と裏―暴れん坊記者が明かす京都秘史

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