自民党で選挙と議員をやりました (角川SSC新書 17)

 彼は政治家ではないな。


 たまたま蔵書の新書を整理していて目に付いた本書を久しぶりに再読して、以前、一度読んだ際にもそう感じたことを思い出した。映画『選挙』では、観る事ができなかった彼が政治の舞台でやりたかったことが書いてあるのではと期待して本書を手に取ったが、残念ながら彼が川崎市政の舞台で何をしたかったのか、まったくわからなかった。


 選挙時の公約は、本人も書いているとおり「イメージ公約」であり、失礼かもしれないが、何も心に訴えかけてくるものがない。よくある平凡な内容だ。まあ、これは、日本の選挙公約では一般的な事で、私も似たようなレベルの公約づくりに携わったことがあるので、人のことは批判できないかもしれない。言い方は悪いが、マニアのような人を除いて(私もその一人なのだろうが(苦笑))市民も公約についてあまり聞いてくることがない。だからいいというわけではないが、一部の例外を除いて地方政治の公約の現状はそんなものだ。彼だけを批判するのはフェアではないと思う。


 私は、多少は直接政治家(候補者も含む)に会って話を聞いたり、政治家が書いた本を読んだ経験が他人より多いつもりだが、自分が何のために政治家になりたいのかが、これほど伝わってこない「政治家」は見た事も聞いた事もない。その意味では彼は稀有な存在なのかもしれない。


 よく「普通の人」が政治家になれないと嘆く声をメディア等を通じて聞く、私は「普通の人」が政治家になる必要はないと考えているが、彼が「普通の人」の典型であったから語る言葉をもっていなかったとは思いたくない。もし、「普通の人」が選挙に出馬し政治家になるのであれば、結果的には、陳腐な選挙で使い古された言葉を使っていても、もっと自分の言葉で自分の思いを語り、そして引退しても昔日の思いを回顧するのではないかと思った。


 彼は、「普通の人」などではない、もっと恐ろしい人物なのではないかとすら感じた。本書を読んでも肝心なことは、あきらかにぼかして書いてある。お世話になった人たちに迷惑をかけるからかもしれないが、それにしても内容が薄すぎる。


 例えば、他の政治家の本と比べたときに、政治にかける思い、政治家をやろうとした動機・きっかけ、自分の詳しい来歴(普通、政治家は聞かれなくても自慢げに自分の人生の歩みを語る。もちろん都合の悪い部分にはふれずにだが。自己愛が極めて強いと感じる人格の人物が多い)や立候補にいたった経緯、再出馬しなかった理由、同僚議員や支持者との関係、役所のことなどについての描写が薄すぎる。これらの事柄についてまったくふれていない訳ではないが、真実や本音はベールの向こうに隠したまま書いている印象をうけた。かといって選挙について本当に詳しく書いているわけでもない。そんな印象が最後まで拭えず、正直あまりいい心象を彼に持つことができなかった。


 ひょっとしたら、彼にとって川崎市議会議員になるということは、「選挙」と「政治」を体験するある種の社会実験だったのかもしれない。映画『選挙』での日常の彼の生活の様子や彼が自身のblogで見せる子煩悩な姿などをみていると、私がひねくれているのでそう見えるだけで人間としては、あたりのやわらかい善良な人なのかもしれないとも思う。しかし、少なくとも政治家になるべき人ではなかったのではないかと思う。


 川崎市民でもない私が彼の人生の選択についてとやかくいうべきではないかもしれないが、彼に投票した20,544人の市民は彼について今どう考えているのかを聞いてみたいと思った。そんなドキュメンタリーかノンフィクションはできないだろうかと夢想してみたが。しかし、おそらく市民は山内和彦というかって1年半ほど市議会議員を務め、映画の主役になっただけの男のことなど、すでに忘却しているのかもしれない。そうだったとしても無理もないだろうが。


 最後にどうしても気になることをもう一つ、本書の表題の「自民党で選挙と議員をやりました」。この表題の表現に彼の人間性のすべてが込められている気がする。まるで、小学生が社会見学にいってきました。体験学習に参加してみましたといっているのと同じようなお手軽な感覚をこの表題からは感じるのだが、これは私が政治マニアになってしまっていて、毒されていて感覚がおかしいから感じるのだろうか。しかし、もし私の感覚があたっているとすると、政治とはそんなふうにあつかっていいものなのだろうか。


 うまく私の感じている感覚を文章に落として伝えることができている自信がないが、こんな表題を著書につける筆者の感覚に拭い去ることのできない、大変な違和感を覚えた。


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