田村元とその時代

盛山正仁『田村元とその時代』を就寝前の時間に少しずつ読み進めています。千ページを超える大部の書のため読み終わるのはいつになるか。
ずいぶん昔に一度Facebookに書いたことがあるのですが、私は、大学の一回生の時に、引退してすぐの田村さんの講演を授業で聞いたことがあります。結局、その後一度もお姿を見ることはなかったのですが、強烈な印象が残っていていつかその業績をきちんと確かめたいと思っていました。
本書には、10年以上前から読みたいと思っていた伊藤隆氏の近代日本資料研究会による田村元オーラルヒストリーが資料として全編掲載されており、こちらにも目を通せるのが楽しみです。
最近、川崎秀二藤波孝生といった郷里の政治家たちに関連する文献を買い求めて読み始めています。現在進行形の政治や政局への興味はどんどん薄れていますが、過去については、ふとした瞬間に関心が強まることがあり、時折、歴史を確認することが気晴らしになっています。

選挙の現場の変化

選挙の現場でも感じていた意識の変化ですが、こうした記事を読むとあらためてやはりそうなんだなと考えさせられます。私が選挙にはじめて関わった20年以上前でも、時折、問題視する人はありましたが、今のような状況ではなかったと記憶しています。
社会の変化を踏まえて選挙の戦術も変えていかねばいけないのでしょうが、雁字搦めの公選法の中でこれ以上どういう打ち手があるのか。
たまたま、先日、友人の政治家とコロナの状況下でどう選挙をすすめていったらよいか議論したところだったのですが、選挙どころではないという世相の中で暗中模索を続ける日々です。
 

失うことに対する恐れ

自分に情熱らしきものがあったのかどうか、自分でもわからないが、ほんの10年近く前にはそうしたものがあったような気が確かにする。どんどんその残り火が自分の中から去っていこうとしているのがわかる。もうひと勝負と思いながら、果たせないまま自分は終わるのだろうか。

閃光のハサウェイ

逆襲のシャア直撃世代としては、『閃光のハサウェイ』を観に行かない選択はないと思うのですが、6月は予定が詰まり過ぎてなかなか足を運べていません。テロで世界を変えられないことは分かっているはずの青年が、なぜかテロリズムに傾倒し破滅していく、少年の頃の私はハサウェイの物語を小説を読んでそのように捉えていたと記憶しています。
ただ、映画を観た人の感想を読んでいるとどうやらそんな単純な物語ではないようです。ともかく観に行きたいが行けない。すみません。そうした気持ちを残して置きたくなり、書いてしまいました。
 

松村謙三

帰路に付きながら、ふと、『松村謙三 三代回顧録』が復刊されることを思い出し、発売時期を確認しました。7/15に出版される予定とのこと。この一冊を楽しみに6月をなんとか乗り切ることにします。

また、6月に復刊される『興亡――電力をめぐる政治と経済』も気になります。しかし、以前にも書きましたが吉田書店さんの書籍は読みたくなるものばかりで毎月、刊行予定を見るたびにわくわくしています。
 

福田赳夫の評伝

岩波書店から『評伝 福田赳夫 戦後日本の繁栄と安定を求めて』が刊行されます。福田赳夫には、自身が記した回顧録はあるものの研究者による本格的な評伝はこれまでなく、今から読むのが楽しみです。
戦後の著名な政治家の1人であり、総理大臣経験者の福田赳夫にそうした書がなかったのは不思議な気がしますが、吉田学校宏池会田中派の政治家と比べると保守傍流とされた岸信介の系譜の政治家に関する文献は少ないのかもしれません。
冒頭の30ページが出版社のウェブサイトに掲載されており、それによると福田赳夫が残した膨大なメモを使って書かれているとのことでこれまでにはなかった分析がなされていることが期待できます。今月末が待ち遠しいです。
 

市民と政治の回路

先日、ある会合に出席していてあらためて理解したことなのですが、政治家は本当に嫌煙されている。できれば関わりたくない存在だと考えている人が多いことを再認識しました。
特別に隠していませんが、私は政治家に知己があり、選挙に関わってきた立場ですので半ば政治関係者だと自己認識しています。気負い過ぎた表現になりますが、立場は違えど同士として活動してきたと思っています。ですから、こうした言説に触れる度複雑な気持ちが心に過ります。
特に政策策当事者、行政やその関係機関で仕事をする人にとっては、率直に言って無理を言ってくる人たちという印象で括られていることがわかりました。にもかかわらず政治という営みは、市民にとっては切り離すことができないものである。そんなことを考えています。
格好をつけた言い方になるので文章に残すのが嫌なのですが、あえて書けば、こうした言葉に触れる度に市民のために損得抜きで汗をかいている友人の政治家たちの顔が頭に浮かびます。彼らが日々、努力していることは意味のないことなのでしょうか。私はそうではないと思っています。
このようなことを書くとお叱りを受けるとは思いますが、必ずしも政策を実行する当事者の運用が適切でない場合もあるのではないかと思います。そうした時に政治家の存在は市民にとっては頼りになるものではないです。
折に触れて書いていますが、私は、政治家や官僚の回顧録を読むことを生きがいのひとつとしていますが、昭和頃までは、政治家や行政と一般の市民の情報格差には極めて大きなものがあったと感じる記述が散見されます。それ故に情報の仲介者としての政治家の果たす役割は大きかったのではないかと思います。
今日、市民と政治、行政の情報の非対称性は、インターネットの発達などを通じて小さくなってきています。ただし、そうした情報を上手く使いこなすことができるのは、社会的な強者であり、いつの時代も弱い立場にある方は、情報にアクセスできないということは多くある。しかし、その仲介を政治家がすることを政策当事者にとってはノイズと感じられるのだと思います。私も公の仕事に少なからず携わってきましたので、そうした政策当事者の皆さんのお気持ちは理解できなくはありません。また、行政にアドボカシーすることで一定目標を達成できると戦略的な判断をされる市民の考えには私も現実的にそうだろうなと思う部分もあります。
しかし、本当に市民と政治との回路がなくてよいのかとも考えます。何らかの対話の仕組みを市民と政治の間に持っておくことは必要ではないでしょうか。仕事を進めなくてはいけないのですが、ついつい自分の考えをメモとして残したくなり投稿してしまいました。まとまりのない文章で恐縮です。