「エコノミストは役に立つのか」を読んで

 長銀総研時代の竹内宏氏だったと思いますが、エコノミストの予測というのは野球のバッターの打率と同じで3割も当たればよいほうだと何かのラジオ番組で発言していたことが随分昔のことですがなぜか記憶に残っています。今日、東谷暁(2009) 「エコノミストは役に立つのか」 『文藝春秋』(2009年7月号) pp.190-205. 文藝春秋を読んであらためてその話を思い出しました。


 記事は著名なエコノミスト25人をムーディーズ方式(Aaa〜B3)で格付けするという内容で、評価の対象となったテーマは「Ⅰ米金融崩壊の予測」「Ⅱ日本経済の浮沈予測」「Ⅲインフレ目標について」「Ⅳ財政出動について」。ⅠとⅡについては各年代の予測の当否及び一貫性をⅢとⅣについては以前からの論理性と07年以降の論理性の評価、及び一貫性を評価し採点をおこなっています。99年と2001年にも取り上げているエコノミストは一部変わっていますが同様の企画を文藝春秋でおこなっており、その記事も興味深く読んだ覚えがあります。官庁・民間企業エコノミストから大学教授、経済人まで同列にエコノミストという括りで評価をおこなっていいのか、そもそも経済学者、エコノミスト予想屋ではないとの批判もありそうな企画ですが、類似の試みが他にはあまり無く意欲的な試みだと思います。


 今回は、時代状況を反映しているのか財政出動を主張する論者の評価が概ね高く、金融政策を重視する立場の論者にはきつめの評価が下されています。クルーグマングリーンスパンといった一部では神格化された人物に対する評価もかなり辛くなっています。クルーグマンは、いうまでもなくノーベル賞を2008年に受賞し日本でも著名な経済学者です。一般向けの啓発書も多く書いており、私も学生時代にずいぶん読みました。経済学の基礎的な理論を大変わかりやすく説明されていて個人的には好印象をもっていたのですが、近年は、持論がころころ変わるとの批判を見聞きすることが多かったので今回の評価も納得せざるを得ないかなと思いました。グリーンスパンもひと頃の金融立国アメリカを作った英雄という評価から、金融バブルの生みの親、崩壊を放置した戦犯という形に扱いが変わってきています。彼らの社会的影響力を考えると安易に同情めいたことを書くことは慎まねばいけないでしょうが、彼らに対する社会の評価の移り変わりからは、経済を論じ政策を実行することの重み、怖さを感じさせられました。


 日本人では、先ごろ新自由主義の経済政策を推進したことは間違いだったと著書を出版し、自己批判をおこなった中谷巌氏について大幅に方向性を変えたことは初めてでないということを指摘したり、伊藤元重氏や田中直毅氏の論の変節を取り上げている点が興味深かったです。


 東谷氏の筆は、論の一貫性を問う場面では特に冴えており、資料を時系列に細かくあたって論証をおこなうところに特徴があります。採点される側からするとある部分だけ抜き取って非難されてもという反論があるかもしれませんが、一読者からしますと、この先生こんなことも書いていたのかと素直に驚かされる。イメージだけで人を捉えてはいけないなということを再認識させてくれる良い企画でした。


 東谷氏には、東谷暁(2003)『エコノミストは信用できるか』文藝春秋 (文春新書)という著作があり、ここで著名なエコノミストについて一人ひとり、掘り下げて評価をおこなっています。今、手元に本がないため記憶にあることしか書けませんが、例えば、長谷川慶一郎氏が若い頃は非常に優れた論評をおこなう経済評論家であったことを紹介していたのが印象に残っています。これは、その当時の私の長谷川氏に対するイメージとは大きくかけ離れていたので、やはり固定観念で人を見ることはいけないきちんとその人の論にあたらないといけないと考えたことを思い出します。

エコノミストは信用できるか (文春新書)

エコノミストは信用できるか (文春新書)