社会を変えると語ることの傲慢

午前中、少し仕事を片付けた後、昼食を済ませて休憩中です。ふと、考えていたことを文字に残しておきたくなりました。

私は自分が社会を変えられると思ったことはありません。ひょっとしたら若い頃はそんな風に考えていたことがあったかもしれませんが、思い出せる限りでは一貫してそうした考えを持っていたと思います。

一生を費やせば、自分の行動が社会を変えることにつながることもあるのかもしれませんが、それはあくまで結果であり、意図してできるものではないと考えています。

一般的に政治やNPOに関わる人は、社会を変えられると思って行動していると思われるのかもしれませんが、少なくとも私に限ってはそうではありません。

では、私は何のために行動してきたのか。何のために生きているのか。そんな益体もないことを考えていました。確かなのは、私は社会や組織のために動いているのではないということです。自分が大事だと思う特定の個人のために行動している。思索を続けるうちにそんなことを再認識しました。

選挙で候補者を応援する時、NPOに関わる時、そのすべてにおいて固有名詞で自分との関係性を語ることができる人とのために行動してきました。

そもそも、私は、指導や支援をするのもされるのも嫌いですし、誰かに対してそんなことができると思ったことが一度もありません。また、他人の生き方の良し悪し語れるほど立派な人間でもありません。

若い頃から、国を変えるとか、社会を変えるとか、そんな大義を語る人たちが、身近な人たちを傷つけ、顧みない姿を見てきました。だからこそ、そういう人間だけにはなりたくないと思いながら生きてきました。

私自身、これまでそのような振る舞いをしていたかもしれません。ですから、自分に罪がないなどと語るつもりはありません。

ただ、そんな私でも僅かでも誰かのために役立てるかもしれないと思いながら、行動し続ける。自分の力が及ぶところは本当に少ない。無力感に苛まれながらもそれでもあきらめずに動くこと、それだけが、私にできることなのだと思っています。