石破氏の発言に関連して

石破氏のテロ発言?が物議を呼んでいる。始めにこの発言(ブログの投稿)を目にしたとき、私は石破氏らしくないなと感じた。石破氏の演説やインタビューはそれなりに聞いてきたし、著作も読んだことがあるので、石破氏はどちらかといえば発言に慎重なタイプの政治家だと思っていたからだ。

しかし、その後の事態の推移を見ていると私が考えていたよりも言論についてナイーブな感性の持ち主だったのだなと判断を変えた。とても残念なのだが、石破氏も近年の政治家の中に一定数いるデオドラントされた社会、あるいは整然とした社会を望む人物だったのだなと思う。

永田町の周りをデモ隊が取り囲もうが、自分とは異なる意見を持つ、国民やジャーナリスト、学者などから批判をあびようが、色んなご意見がありますねと鷹揚に構えていればよかったのに、なぜ、それができなかったのかと感じる。あるいは冗談めかして、このような国民の声をこのたびの法案は一切制限するものではありません。日本の民主主義の基盤の強さが証明されていますねとでも言ってみせてもいいだろう(これはこれで批判を浴びたかもしれないが)。

別に今回の件に限らず、永田町に行けば、日常的に街宣やデモはおこなわれている。その中には、個人的には首をひねるような内容のものもないではない。しかし、それが許されている(権利として保障されれている)のが民主主義を掲げる日本という国の良いところなのだ。

自分とは異なる言説、特にレッテル張りやラベリング(決めつけ)をおこない攻撃してくる人に対しては鬱陶しいと誰もが感じるのは当たり前だ。いわゆる議論にならない状態は、とても精神的に滅入る。

しかし、その程度のことに耐えられなければ、政治家にはなれない。また、政治家である以上、言うまでもないことだが、そのような人(自分とは異なる意見を持った人)の言葉にも耳を傾けねばならない。石破氏ほどキャリアのある政治家ならそのことは十二分に承知だったと思うのだが、よほどストレスがたまっていたのか、それとも別の何か理由があったのか。

政治とは、複雑に絡み合った利害対立を調整する合意形成の技術であり、極めれば精緻な機能美を感じさせる芸術にすら昇華するものだと私は考えている。このような政治的な文脈であれば、大声で自分の言いたいことを述べていれば、それがかなうわけではないという石破氏の発言には一利ないわけではない。

しかし、それは、国民に求めれれるものではないと思う。あくまで政治家に必要なものでしかない。国民は整然と論理的に意見を述べる必要などない。街頭に出て、堂々と自分たちの思いを述べればよい。叫べばいい。もちろん論理的に述べてはいけないといっているわけではない。ただ、これは手法の問題であり、ここで私が述べたいことにとっては重要ではない。

私の周囲には、デモを主催する人が少なからずいる。参加者はもっといる。反対にデモに対して冷笑的であったり批判的な人もいる。まったく関心がない人もいる。石破氏の発言に対する評価も様々であると思う。皆さん、多様な意見をお持ちだ。どの意見も正しく見える時もあるし、そうでないときもある。

多様性とは、うっとしいものだ。私は折にふれて、異なる立場や意見を持つ人とうまく言葉を交わすことがコミュニケーションと考えていると述べてきたが、実践するとなると面倒くさい。しかし、そのめんどくささから政治家は逃げてはいけないのではないか、この国が内包する多様性をそろそろ正面から受け止めた政治をおこなうべきなのではないか。国民の一部はそのことにすでに気づいて動き始めていると感じる時も多いのだが。少なくともあるべき国民の姿を追い求めることなど辞めるべきだ。歴史が証明するようにどうせ碌な結果はでない。

それにしても自民党の余裕のなさはなんなのだろうと思う。焦らず王道を行けばよいではないか。全盛期に比肩する国民の支持を受け、歴史的な議席数を保有しているにもかかわらず、なぜ、それができないのか。特定秘密の保護に関する法律案についてもそうで、もっと審議時間をとればいいではないか。臨時国会の会期を伸ばせる限界の12月一杯まで審議をしてもいいし、来年の通常国会まで継続審議にしてもよい。国会の力学からするとそれができない理由も頭には浮かぶ。浮かぶが、それこそどうでもよいことではないか。