あなたは庭に入る人か

 忘れられない出会い、言葉、会話がある。ふと、そんなことをある政治家(今村岳司XDL-diary(2009-08-10)/http://xdl.jp/diary/?date=20090810)の日記を読んでいて考えた。


 思い出を語りたい。私は、NPOの世界に少なくない時間かかわりを持ってきた。老若男女色んな世代の人と交わりを結んだ。その中でもいくつか忘れられないものがある。


 あれは4〜5年前のことになるだろうか。地域で長年ボランティアに取り組んできた初老の女性とゆっくり話をしたことがある。彼女とは、私の最初の務めで知り合ったのでその頃でもかなり長い付き合いだった。当時、彼女は自分がボランティアを続けることについて深く悩んでいた。そのときの私との話も自然悩みをについての話になった。


 その話について細かい点は忘れたが、どうしても忘れることができないくだりがある。それが庭についての話だ。あなたが住んでいる家の隣の家の庭が荒れ放題になっている。このまま放っておくと、あなたの家にもひょっとしたら木々が侵食してくるかもしれない。人様の家のこととはいえ一声かけ注意すべきだろうか。あるいは、その家の人には庭をきれいにできないなにか事情があるのかもしれない。庭を手入れする手伝いを申し出るべきだろうか。でも、庭に入っていくという行為は、人の領域を犯すことかもしれない。自らが現実として犯されてもいないのに他者の事情に立ち入っていく、ボランティアとはそういう行為ではないのか。あなたはその迷いを乗り越えて庭に入っていく人か?


 当時、民が担う公、社会貢献という概念に幾ばくかの疑念と多くの押し付けがましさを感じていた私には、この言葉は強く響いた。その後もこの言葉の意味を考え迷いながら、今に至っている。


 このたとえ話に含まれる迷いの意味について、政治や行政、あるいはあらゆる社会活動に携わるひとは全てが思いを同じくすべきだと私は思う。公とか社会的制度というものがどれほど一般的な理解として迷いから遠い、無謬性という盾に守られたものであったとしても、私は迷いなく定められたそれに魅力を感じることができなし、従うことに抵抗を覚える。

 
 政治家や行政、NPOに携わる人の中には、まったくこういった迷いを感じない人がいる。苦悩したことがないのか、それとも忘れたふりでもしているのか?正直うらやましいぐらいだが。それでも私は迷っている人間の方が好きなのだ。どうしようもないくらいに。


 いつかこの話は書いて残しておきたいとずっと思っていた。実は、庭の例えを私が持ち出したのか彼女が持ち出したのか記憶がはっきりしない。ただ、このエピソードだけが心に強く残っている。彼女に会うことはもうないかもしれない。それでも私は生涯、庭に入るべきどうかを常に悩みながら生きていくだろう。


 後日、彼女ともう一度会った。彼女は悩みながらもボランティアを続けていくことを選んだ。それは一つの選択。


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