誠心誠意、嘘をつく 自民党を生んだ男・三木武吉 2007年10月10日 00:06

 近年は、語られることも少なくなったが、戦後の保守政治を語る上では欠かすことのできない政治家の一人である三木武吉の評伝。

 政治史に残る政治家が伝説の彼方へと葬送されていく過程を物語にした。そんな感覚を覚えた。こうして人間は歴史になっていくのだろうか。本当の三木はどんな人物だったのだろう。真実が描かれているというよりは、社会がある人物を伝説としていく過程を読んだ気がした。そうだと言われている物語を書くことが評伝であるのならこれこそ正伝なのかもしれないが、読後、いつか三木武吉という政治家を、巷間語られているのとは違った視点で描いた作品を読んでみたいとなぜか感じた。


 田中角栄といい、三木武吉といい、なぜか水木さんが描く日本の近現代のリーダたちの姿は、ステレオタイプなほどに昔語りで、型にはまったヒーローに映る。彼は、現代に英雄を描きたいのかもしれないが、ほとんどノスタルジーの粋でしか語れていないのではないか。信念を貫き通す。確固たる何か、確信するにたるものを持っている。そうした文脈、背景をで語られる「英雄」に私は大変魅力を感じるタイプの人間だが、本書については表層的な事跡を追ったものに感じてしまった。もちろん山も谷も話の中に設けて尚且つすらすらと読者に読ませる筆力たるやたいしたものだと思う。しかし、何故か迫力を感じないのだ。おそらくそれは、葛藤を描けていないからかもしれない。


 思い邪なし―下村治と激動の昭和経済(文庫版のタイトルは、エコノミスト三国志という最低のタイトルだった)で高度経済成長を演出しバブル経済を見通したエコノミスト下村治の評伝を書いた際には、筆者が若いころから折に触れて下村に接してきて、血肉としてきたものを文章に落として込んでいて、下村の想いが文中からほとばしってくるようにさえ感じた。視点を近くに置く手法は対象との境界線をあいまいにし、必ずしも人物を描くときに良い結果を生むとは限らないだろうが、筆者の場合は、ジャーナリストとして足で稼いだ情報をノンフィクションとする方が向いているのではないか。


 ツヴァイクが書いたジョゼフーシェとまではいわないが、いつか床屋政談や講談(決して嫌いではないが)の域を超えた政治家の評伝を読んでみたいものだ。

誠心誠意、嘘をつく 自民党を生んだ男・三木武吉

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