福田赳夫の評伝

岩波書店から『評伝 福田赳夫 戦後日本の繁栄と安定を求めて』が刊行されます。福田赳夫には、自身が記した回顧録はあるものの研究者による本格的な評伝はこれまでなく、今から読むのが楽しみです。
戦後の著名な政治家の1人であり、総理大臣経験者の福田赳夫にそうした書がなかったのは不思議な気がしますが、吉田学校宏池会田中派の政治家と比べると保守傍流とされた岸信介の系譜の政治家に関する文献は少ないのかもしれません。
冒頭の30ページが出版社のウェブサイトに掲載されており、それによると福田赳夫が残した膨大なメモを使って書かれているとのことでこれまでにはなかった分析がなされていることが期待できます。今月末が待ち遠しいです。
 

市民と政治の回路

先日、ある会合に出席していてあらためて理解したことなのですが、政治家は本当に嫌煙されている。できれば関わりたくない存在だと考えている人が多いことを再認識しました。
特別に隠していませんが、私は政治家に知己があり、選挙に関わってきた立場ですので半ば政治関係者だと自己認識しています。気負い過ぎた表現になりますが、立場は違えど同士として活動してきたと思っています。ですから、こうした言説に触れる度複雑な気持ちが心に過ります。
特に政策策当事者、行政やその関係機関で仕事をする人にとっては、率直に言って無理を言ってくる人たちという印象で括られていることがわかりました。にもかかわらず政治という営みは、市民にとっては切り離すことができないものである。そんなことを考えています。
格好をつけた言い方になるので文章に残すのが嫌なのですが、あえて書けば、こうした言葉に触れる度に市民のために損得抜きで汗をかいている友人の政治家たちの顔が頭に浮かびます。彼らが日々、努力していることは意味のないことなのでしょうか。私はそうではないと思っています。
このようなことを書くとお叱りを受けるとは思いますが、必ずしも政策を実行する当事者の運用が適切でない場合もあるのではないかと思います。そうした時に政治家の存在は市民にとっては頼りになるものではないです。
折に触れて書いていますが、私は、政治家や官僚の回顧録を読むことを生きがいのひとつとしていますが、昭和頃までは、政治家や行政と一般の市民の情報格差には極めて大きなものがあったと感じる記述が散見されます。それ故に情報の仲介者としての政治家の果たす役割は大きかったのではないかと思います。
今日、市民と政治、行政の情報の非対称性は、インターネットの発達などを通じて小さくなってきています。ただし、そうした情報を上手く使いこなすことができるのは、社会的な強者であり、いつの時代も弱い立場にある方は、情報にアクセスできないということは多くある。しかし、その仲介を政治家がすることを政策当事者にとってはノイズと感じられるのだと思います。私も公の仕事に少なからず携わってきましたので、そうした政策当事者の皆さんのお気持ちは理解できなくはありません。また、行政にアドボカシーすることで一定目標を達成できると戦略的な判断をされる市民の考えには私も現実的にそうだろうなと思う部分もあります。
しかし、本当に市民と政治との回路がなくてよいのかとも考えます。何らかの対話の仕組みを市民と政治の間に持っておくことは必要ではないでしょうか。仕事を進めなくてはいけないのですが、ついつい自分の考えをメモとして残したくなり投稿してしまいました。まとまりのない文章で恐縮です。

選挙の思い出・限界を知った10年

夕食を作りながら少しお酒を飲みながらこの10年をふりかえり、おっさんの一人語りを公開するのは醜いと知りつつ投稿してしまいました。お許しください。
これまでの日々は、選挙について自分の限界を理解する年月だったと思います。小手先の技術をどれだけ磨いても自分が選挙結果に及ぼせる影響は微々たるもの。いや、ほんとどないことを悟りました。
担った役割は様々ですが、私がこの10年で関わった選挙は、20~30ぐらいだと思います。多いと見るか少ないと見るかは様々だと思いますが、候補者、政党、組織、秘書といった肩書のない人間としては、それなりに経験を積んだ方だと考えていました。何度も書いていますが敗北で失ったものを取り戻すために様々な伝手をたどりながら少しでも経験を重ねようと選挙の現場に参加し足掻いて来ました。しかし、この数年、自分の力の限界を感じる場面が多くなってきました。結局のところ、選挙結果に影響をあたえるのは、候補者本人の努力であって私のような立場の人間ができることには限界があるということを理解しました。
この投稿をご覧になる皆さんの中には違和感を覚える方があると思いますが、選挙において政策が有権者の投票行動に与える影響は私はほとんどないと思います。特に私が主戦場にしてきた地方選挙においては、その傾向が如実に表れます。地方選挙に関わられた経験をお持ちの皆さんは、同意いただけるのではないかと思いますが、任期中、政策について一切の発信をしなかった候補者が選挙においては上位で当選する。そんな結果を何度も経験されているのではないかと思います。
ご批判を承知で言えば、政策に割く時間があるなら「選挙」に時間をできるだけ充てる。それができる候補者が選挙においては結果を出すと経験から確信しています。むしろ、誠実に自分の思いや政策を練り上げ、ひとり一人の有権者にそのことを理解して欲しいと行動する候補者が選挙結果においては、十分な成果を出すことができない。時には落選してしまう。そんな現実を見てきました。
私は、自分が選挙戦を預かる選挙においては、この現実をスタート地点にして選挙に関わる支援者の皆さんにご説明しますが、この話をすると非常に不快に感じられる方が一定あり、それが、候補者自身のこともあって自分が間違っているのだろうか、人間として歪んでいるのだろうかと感じることがあります。それでも勝つためには必要なことと割り切って進めるのですが、本当にこれが正しいことなのだろうかと思います。負けるよりはいいとは思うのですが。
「選挙」に時間をできるだけ充てるとは、具体的にはどういったことを指すのかについてもう少し述べさせてください。極めて単純化すると候補者が有権者とどれだけ個人的な関係を結べるか、そのためにどれだけ時間を割けるか。選挙の要諦はこの一点につきると思います。田中角栄元総理は、戸別訪問三万軒、辻説法5万回をこなせと言ったとされますが、私の理解では、有権者と候補者が個人としてつながりを持つためには、この手法が最も効果的だと田中さんは考えていたということなのだと思います。
ふと思い出すのは、現職の閣僚である世襲議員の選挙を手伝った若いスタッフの言葉です。戸別訪問に回っていてある家を訪ねた際に家人が、候補者の祖父の名刺を出してきて、先生が我が家を訪ねて来てくれたことを覚えていると話してくれたとのこと。候補者本人のことを知らなくても個人的な関係性があることが、強いつながりを候補者と有権者の間につくる。後年、大物政治家になった人物が家を訪ねてくれたことを思い出として大事にしている人がいる。とはいえ、今日、そんな人はいないだろうという人はあるかもしれませんが、世襲議員が圧倒的に選挙に強い現実を見ると世代を超えて有権者との間につくりあげた関係性がいかに強いものかがわかると思います。
このことについては、フリーランスのライターさんが私が酔っ払って話したことをまとめてくださっています。この投稿の中で「いろんな政治家の人の選挙のお手伝いをしている」と記されているのは私のことです。
酔いが回ってきたので今日のところはここまでにします。

壁を感じる時

経験から帰納的に考えることは、意識するかどうかは別ですが、多くの皆さんは無意識におこなっていることだと思います。個々人の経験の格差はありますが、特別なトレーニングをうけなくともできることではないかと考えています。
私は仕事などに取り組む時に基本的には過去の経験からパターンを引き出して判断し、その時々で妥当と思われる行動を選択してとっています。過去に類似の経験をしていない場合は、適切な判断が取れる時もありますが、取れないこともあります。
一方で昨日の投稿で書きたかったこととも少し関連するのですが、論理的なフレームワークを用いて思考し行動することができる人がいます。社会像や新しい事業のモデルなどを描ける人は、様々な事象から見えてきた要素をつなぎ合わせて考え、構築することができると感じています。この思考方法が生まれながらにできる人はあまりいないので身に付けるには一定のトレーニングが必要となると思いますが、特別な能力ではないとも考えています。
時々、こうした思考方法を見事に使う人に出会うことがあり、その構想力に圧倒されることがありますが、そうした考え方をとる人が一定数いることを知っていれば、冷静に相対化して対応することは可能と思います。
私自身がこういった考え方をするのが苦手なことは、この投稿を読んだ方はわかるのではないかと思います。つまり何が言いたいのかよくわからないと思いますが、思考のプロセスを残しておきたくなり記しました。

悪い癖

やはりあの場では何か発言しておくのだったと今さらながら後悔しています。空気を読んで沈黙を守ってしまった。だいたいこの辺りが着地点なのだろうなと勝手に感じて議論を避けるのは、私の悪い癖なのかなとも思っています。
今、リベラリズムについて論じている文献を少しづつ読んでいるのですが、目の前の仕事に追われていると学生の頃に学んだような社会のあり方を大括りに整理してみせる議論に魅力を感じる時があります。
もともと私は、具体的な政策についての議論よりはもう少し形而上的、哲学的な議論が好きで特に忙しくなってくると現実から離れて、〇〇とは何か的な書物を読むことが多くなります。もしくは、伝記など過去の資料に目を通します。リアルタイムの狂騒から距離を置きたくなるからだと思います。
昔、ある研究者の方と飲んでいた時に自分が若い頃にマルクス主義が流行ったのは、社会の構造をナタで切るようにわかりやすくすっきり捉えるフレームを提供してくれたからだと言われたことがあります。
ただ、わかりやすいものには往々にして害があるもので、私自身、新しい理論に触れて世の中についてわかったようになった気分にならないよう戒めていかないといけないと考えたことを思い出しました。

負け犬たちのワンスアゲイン

RHYMESTERを聴きながら事業報告書を書いています。パソコンのキーボードをたたきながらリズムをとってしまうのではかどるようなはかどらないような感じですが、次の会議の合間までの時間ちょっとした息抜きも兼ねています。次は、once againを聴こうかな。

 

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おのがデモンに聞け

『おのがデモンに聞け』タイトルだけで買って読みたくなる吉田書店の書籍です。同じ出版社の近刊では、『三木武夫秘書備忘録』も読みたいところですが、最近、まったく本を読む時間がないのと積読がおそらく100冊を軽く超えているので我慢します。
吉田書店の政治・社会系の本はすべて購入したいのですが、値が張るのと読み切るのに気力が必要なのでなかなか手が出せません。